本能寺で織田信長を討った明智光秀だが、どうにも不可解な部分が多く、それに伴って色々と陰謀論も囁かれている。中でも以下の3説が比較的有名である。
信長が死んだ後、政権を握ったのが秀吉だった。事件の黒幕を考えるとき、得をした人物を疑うのは定石。大返しなど手際がよすぎるとの指摘があるが、本能寺の変が起こるのを知っており、予め用意していたとする説。
光秀の反乱には全く大義名分がなく、呼応する動きもなかった。それどころか、光秀にかなり近い筋の武将にすら呼びかけた形跡がなく、計画性の見られない突発的な事件だったと考えられている。ということは本能寺の変の直前に、光秀に何かがあったと考えるのが妥当だが、調べてみると事件の数日前に「家康との面会(接待?)」を行っていることがわかる。このことから「狸に化かされた」とする説。
光秀は最初、斉藤に仕えていたものの、斉藤家が滅んでからは朝倉や足利義昭などに仕えた時期もあったようだ。戦国の世とはいえ、建前上は皆将軍・足利義昭の部下である。もし、光秀が将軍に対する忠誠心を持っていたとすると面白い。本能寺の変の少し前、信長による義昭追放が行われている。これに対する「主君へのあだ討ち」だったとするなら従来の「逆臣」の評価が真逆になり「忠義の士」だったということになる。