雑記帳


イスラム教に関する考察

宗教というものに理解を示そう模索した結果、逆に全否定するしかなくなってしまったお話

意味不明な宗教の教え

宗教の教えというものは信じていない立場からすれば意味不明であり、神の教えの名のもとにわけのわからないことを言ったりやったりしている奴らという認識である。

イスラム教の戒律は宗教の中でも厳しい部類だと思うが、特に食べ物に関する規制が常軌を逸している。イスラム教徒(ムスリム)にとって、食べてはならないとされるものをハラーム、そうではない(食べても良い)ものをハラールと呼んでいるが、ハラームの中で特に有名なものが豚肉とアルコールである。この2つに対するタブーは凄まじく、日本料理で言えばみりんを少々入れただけでアウト。加熱して蒸発しようがアウト。豚肉に至っては、そのものが使われていなくても、豚由来の酵素を触媒に使っただけでアウトとする判決が下されている。なぜこれほどまでに、豚肉とアルコールが悪者扱いされるのか。

黎明期のイスラム教

イスラム教ができた1500年ほど前に遡って考えてみよう。まず、当時はまだ現代科学では常識とされるようなことも全く知られておらず、「細菌・ウイルス」などの存在など知るべくもない。病気も、瘴気だの穢れだの悪霊だのといったものの仕業と考え、祈祷や呪いの類で治そうとするような時代である。豚肉は人にとって有害な菌を持つため十分に加熱して殺さないと危険であるが、そのような知識が十分になかった時代、他の肉と同様に適当に加熱もせず生で食べていた人も多かっただろう。そして、豚肉を食べた人から次々に病気になり、気づけば『豚肉は危険』であることが常識となる。そんな中、イスラム教の偉い人が来て重々しく言う。

神の啓示である。豚は穢れた動物也、決して口にすることなかれ。

こうして徐々に、教義が出来上がってゆく。

科学と対立する宗教

このように、宗教ができたばかりの頃に戻って考えるとそれはわけのわからないものではなく、単にその土地・その時代の常識やルールに対して神のお墨付きを与えただけのもの、つまり文化や『科学』そのものであったと言える。

しかし、科学は進歩する。途方もない失敗と間違いを積み重ねながらも、少しずつこの世の理を解明してきた。一方、宗教はどうか。神が簡単に『あの時はそう言ったけどやっぱり間違いでした』などと言えるだろうか。全知全能などと言われる神が!

結果的に『神の教え』は1500年間変わらず継承し続けることになる。それはすなわち、現代では否定された1500年前の科学をもそのまま信じ込んでいることになる。

しかし、元はと言えばイスラム教も文明を全て否定しているわけではなかった。その習慣もそのまま続き、イスラム教徒も現代文明の利便性の享受は否定しない。当然、現代科学の存在も見て見ぬふりはできないであろう。そしてイスラム教徒も飛行機に乗り旅行をする。その最中、「1日5回」のお祈りはどうするのか。地球上において"メッカの裏側"まで来てしまったら、どの方向を向いてお祈りをすればいいのか(メッカの方向を向いて祈るというのは当然、地球が丸いことが知られる前に確立したもの)。そして、イスラム文化の影響が及んでおらず「ハラール」かどうかわからない食べ物しかない場所に来てしまったらどうしたらいいのか。食べずに餓死しろというのか。

もちろん、そんなことはない。元々、健康を保つために豚肉を禁じていたはずであって「食うぐらいなら死ね」という意味では断じてない。そこで、イスラム教にも現代流解釈が必要になり作られている。イスラムの教えを日本語に訳したものはネット上にいくらでも落ちているが、そこではありとあらゆる場所に「○○をしてはならない。ただしやむを得ぬ事情がある場合、神は寛大である。」と書かれている。なるほどね。

と、ここまでで終われば平和であるが、残念ながらそうはいかない。科学が進歩し、文明が発達するほどに「教え」との間の乖離が大きくなる。そのたびに「神は寛大である」を乱用しなければならなくなるが、それをよく思わない一派も存在する。そして神の教えを忠実に守ることこそが全てであると信じて疑わない狂信者の一部が「イスラム原理主義」を掲げ独立する。これらは「教えを守るにあたって阻害要因となりうるものを武力を用いてでも排除する」といった考えに至ることも多く、結果として武力による衝突が絶えない。

現代社会に宗教はいらぬ

結局、科学の発達した現代においては宗教とは相容れず、矛盾が生じ続ける。今回はイスラム教を全否定したが、キリスト教に関しても進化論などの争いを見るに、科学との矛盾は避けられていない。現代においても「インテリジェント・デザイン説」などの形で残っており、学校教育で教えろという圧力まで存在するそうな。ここまでくると狂ったカルト集団そのものである。